リマ (Lima)
インカ帝国の支配が及ぶ前の先コロンブス期には既に現在のリマの場所にはいくつかのアメリカンインディアンのグループが居住していたと考えられており、大地神パチャカマックを信仰するを形成していた. 3世紀から8世紀ごろにかけてルリン河谷のパチャカマを中心に発展したもので、この地にはいくつかの独特な遺構が残されている. インカ時代に入ると巨大な太陽神殿や月の館が建設され、宗教的な中心地の役割を果たすようになった.
1535年1月18日に、インカ帝国を征服したスペイン人のフランシスコ・ピサロらコンキスタドーレス一行は、リマック川右岸のリマの首長、タウリチェスコの館で、スペイン式の儀式に基づいて「副王たちの都」("La Ciudad de los Reyes")を創設した. 場所の選定として最初はアンデス山脈中腹のハウハが候補に上ったが、高度と海路交通の不便さなどから見送られ、太平洋に面したリマク川の畔のリマの地が選定された. 1542年にリマはペルー副王領の首都に指定され、ヌエバ・エスパーニャ副王領のメヒコ市と共に、それまでのイスパニョーラ島のサント・ドミンゴに代わってアメリカ大陸におけるスペイン植民地支配の中心地となった.
16世紀から17世紀を通して、リマはスペインによる南米植民地支配の拠点として、アルト・ペルーのポトシや銀山の銀がヨーロッパに輸出されるための中継地点となったことで栄えた. 1551年には南米最古の大学であるサン・マルコス大学が創設された. 1614年には人口は25,000人を数えており、リマの発達と共に都市文化が栄え、サン・フランシスコ教会やトーレ・タグレ邸などの華やかな建築物が建造された. 1687年と1746年の大地震は多くの建築物を破壊したが、リマの栄華は失われなかった. 1761年に着任した副王アマトは大規模な都市計画や演劇の振興を行い、知識人の文化が栄えた. 一方リマにはアフリカから連行された奴隷や、都市に流入した先住民系の住民、メスティーソなどの人々も存在し、白人上流階級の文化とは別に彼等独自のクレオール文化が育まれた.
1808年のナポレオン・ボナパルトが自身の兄をスペイン王ホセ1世として即位させると、それに反発する民衆蜂起からスペイン独立戦争が勃発、イスパノアメリカのクリオージョ達は、ホセ1世への忠誠を拒否し、ラテンアメリカ大陸部の独立戦争が始まった. リマのクリオージョは特権を失うことを恐れて独立に消極的だったが、1821年にアルゼンチンからホセ・デ・サン=マルティンがリマを解放し、独立宣言を発した. その後リマは独立勢力の混乱の中で再びスペイン王党派軍に奪回されたが、最終的にシモン・ボリーバルとアントニオ・ホセ・デ・スクレがでペルー副王率いる王党派軍を壊滅に追いやったことにより、ペルーの独立は確定した.
独立後のペルーの政治は安定せず、各地でカウディージョが跋扈していたが、が一定の安定を実現すると、ペルーはグアノの輸出によって近代化を実現しはじめ、ガス灯や鉄道が建設され、1872年に都市計画のためにリマの城壁は破壊された. また、19世紀の半ばからヨーロッパや清(中国)からの移民がペルーに導入され、19世紀末には日本人移民も導入された. これらの移民はコスタの大農園で労働者として働いた後に、多くはリマに流入して小商店主などになった.
1879年に勃発した太平洋戦争でペルーが劣勢に陥ると、1881年にチリ軍はリマを占領した. チリの支配は二年間続き、アンコン条約が結ばれるまでチリ軍は撤退しなかった.
1940年には大地震が起き、以降スラムの建設が盛んになった. また、同年満州事変以来高まる排日運動を背景に、暴動が勃発した. 第二次世界大戦後にはペルー各地から人々が移り住んできたことから市街が急速に拡大し、一大都市へと変貌していき、人口は1940年の35万人から1980年までの40年間で実に11倍も増加している.
1968年に軍事革命でベラスコ将軍が政権を握り、ペルー革命が始まると、リマ周辺のスラムは「若い町」(プエブロ・ホーベン)と呼ばれ、スラムでの自治運動が推進された.